展 示 案 内

プロローグ 江戸時代・旅と街道のきほん

旅についての法令をはじめ、通行手形、旅装束、携行用の枕やろうそく立てなどの旅道具から、通行手形、旅装束、携行用の枕やろうそく立ての旅道具から、一里塚・旅道松などの街道施設まで、旅と街道のきほん資料を紹介します。



「花卉文螺細提重」
  江戸時代/下関市歴史博物館蔵


 提げて携帯するように作られた、酒器、食器などを組み入れにした重箱です。
 重箱や徳利、酒器、取り皿がセットになっており、鷹狩りや茶会、花見の宴などの野外行事、小旅行の際に使われました。徳利に「一に三つ星」の家紋が刻まれており、長府毛利家に嫁いだ萩藩のお姫様の所用品とみられています。

「印籠 毛利輝元遺品」
  桃山~江戸時代/毛利博物館蔵
【山口県指定有形文化財】


 当初は印を入れたことから印籠と称されましたが、江戸時代の武士や町人の携帯用常備薬入れとして実用的な道具でした。次第に実用的な機能は失われ、美術工芸品として扱われるようになりました。ドラマ「水戸黄門」に登場することで有名ですが、家紋以外に様々な意匠が用いられました。展示資料は相当の年月を経ており、紐は失われています。

「印籠 毛利輝元遺品」
  桃山~江戸時代/毛利博物館蔵
【山口県指定有形文化財】


 当初は印を入れたことから印籠と称されましたが、江戸時代の武士や町人の携帯用常備薬入れとして実用的な道具でした。次第に実用的な機能は失われ、美術工芸品として扱われるようになりました。ドラマ「水戸黄門」に登場することで有名ですが、家紋以外に様々な意匠が用いられました。展示資料は相当の年月を経ており、紐は失われています。

「黒塗一に三つ星紋入り陣笠
 毛利元徳所用」

  江戸時代(19世紀)/毛利博物館蔵


 毛利元徳所用の陣笠。陣笠はもともと軽輩などが兜の代わりに用いたものですが、江戸時代には大名など上級武士も使用しました。毛利家の家紋「一に三つ星」を金泥で描き、筋兜を思わせるような頭頂部から伸びた金線が特徴的です。内側は総金の豪華な造りです。

「諸御書付二十八冊」
  正徳3年(1713)/山口県文書館蔵
【山口県指定有形文化財】


 萩藩初期からの地方支配に関する法令を集大成したものです。旅に関する様々な規則の中で、駕籠(かご)やそれを担ぐ人たちの賃金も定められていました。



「諸御書付二十八冊」
  正徳3年/山口県文書館蔵
【山口県指定有形文化財】


 萩藩初期からの地方支配に関する法令を集大成したものです。旅に関する様々な規則の中で、駕籠(かご)やそれを担ぐ人たちの賃金も定められていました。



第1章 さまざまな旅の姿

参勤交代や御国廻り、湯治など萩藩主の旅から、庶民の名所見物などさまざまな旅に関する資料を紹介します。
トピックとして、吉田松陰が安政の大獄で江戸送りとなった際の、護送記録を取り上げます。



「毛利敬親像」
  E.キヨッソーネ/明治時代
 山口県立山口博物館蔵


 毛利敬親(1819~71)は、長州藩13代藩主。名は慶親、のちに敬親と改めました。諡(おくりな)から忠正公と称されます。天保8年(1837)4月家督を継ぎ、激動期の藩政を担いました。
 明治4年(1871)3月、山口で死去。墓は、山口香山墓所(国史跡「旧萩藩主毛利家墓所」)にあります。本像は、慶応2年(1866)12月、三田尻停泊中の英国艦上で撮影した写真をモデルに描いたものです。作者は、明治天皇や西郷隆盛の肖像画で知られるイタリアの銅版画家E.キヨッソーネ。毛利家伝来品。



 

「温故東の花第四篇 旧諸侯参勤御入府之図」(毛利敬親参勤交代図)
  楊洲周延・明治22年(1889)/山口県立山口博物館蔵


 萩藩13代藩主毛利敬親の参勤交代の模様が描かれています。画面左端には、「長門中将具足」と書かれた毛利家家紋入りの櫃がみえ、その後ろで白い毛槍を投げあうパフォーマンスが目を引きます。横一列の御弓に続き、扇形の鞘(さや)を持つ槍、藩主の駕籠、螺鈿(らでん)の柄を持つ2本の槍が描かれています。この3本の槍は、大名家の名鑑『武鑑(ぶかん)』にも描かれています。
※本展では、3本槍の真ん中に見える槍(十文字槍)と、参考資料として現代の毛槍、御弓を展示しています。



「吉田松陰自賛肖像(中谷本)」
  安政6年(1859)/山口県立山口博物館蔵


 吉田松陰自賛肖像は、安政6年(1859)5月、江戸護送の幕命を受けた松陰が、旅立つ前に、吉田家・杉家と門下生の品川弥二郎・久坂玄瑞・岡部富太郎・中谷正亮の4名に、形見として与えたものです。自賛肖像の制作を発案したのは久坂玄瑞、肖像の筆者は門下生・松浦松洞、松陰の自賛は、小田村伊之助(楫取素彦)の依頼によるものでした。
 本図は、門下生の中谷正亮に与えたもので、計6幅の自賛肖像のうち、最後の作品です。松陰が中谷の懇願に応じたのは、まさに松陰が江戸へ旅立つ前日の夕方でした。
 肖像の右下には、筆者・松浦松洞の落款(らっかん)(「松洞」、「聴鶴」)があります。自賛肖像の中で、松洞の落款があるのは本図のみです。

「関札」
  嘉永4年(1851)/元治元年(1864)
 山口県立山口博物館蔵

「亀井隠岐守宿」

 関札は、江戸時代に公家・大名・役人などが宿駅に泊まったとき、その名前を記して本陣などの玄関先や式台に掲げた木札のことです。
 嘉永4年(1851)2月12日、津和野藩第11代藩主亀井茲監が、参勤交代の途次、山口町の脇本陣安部家に宿泊した際に掲げられた関札です。津和野藩主の参勤交代は芸石往還を使っていましたが、山深い難路であったため、幕末期には山口を経て山陽道に出るルートを取っていました。
※展示資料は、一対の片方です。

「戸川鉡三郎宿」

 第一次長州征討の降伏条件であった山口城破却の確認のため山口に来た幕府目付・戸川鉡三郎が安部家に宿泊した際の関札です。片面は、「毛利筑前宿」(一門右田毛利家当主)となっています。安部家に掲げられた関札の遺品に、このような例はなく、当時敵対する幕府役人のため、一門用の関札を再利用したのかもしれません。


「関札」
  嘉永4年(1851)/元治元年(1864)
山口県立山口博物館蔵


「亀井隠岐守宿」

 関札は、江戸時代に公家・大名・役人などが宿駅に泊まったとき、その名前を記して本陣などの玄関先や式台に掲げた木札のことです。
 嘉永4年(1851)2月12日、津和野藩第11代藩主亀井茲監が、参勤交代の途次、山口町の脇本陣安部家に宿泊した際に掲げられた関札です。津和野藩主の参勤交代は芸石往還を使っていましたが、山深い難路であったため、幕末期には山口を経て山陽道に出るルートを取っていました。
※展示資料は、一対の片方です。

「戸川鉡三郎宿」

 第一次長州征討の降伏条件であった山口城破却の確認のため山口に来た幕府目付・戸川鉡三郎が安部家に宿泊した際の関札です。片面は、「毛利筑前宿」(一門右田毛利家当主)となっています。安部家に掲げられた関札の遺品に、このような例はなく、当時敵対する幕府役人のため、一門用の関札を再利用したのかもしれません。



第2章 絵図と古文書で見る防長の街道

 近世防長の主要街道の様子を、大型の国絵図や美麗な街道絵図で紹介します。また、各街道の要衝や街道の面影が残る地域を資料写真や動画で展示します。会場に居ながら街歩きを体感できます。



「御両国測量絵図」(伊能大図)
 ※部分展示

  文政4年(1821)頃/山口県文書館蔵


 伊能忠敬(1745~1818)の全国測量による「大日本沿海輿地(よち)全図」のうち「大図」(縮尺3万6000分の1)の周防国・長門国部分です。萩藩が伊能家から人手した副本で、図上には、測点の位置を正確に写した無数の針穴が残っています。江戸幕府上呈(じょうてい)本と伊能家控図が共に焼失しているため、「大図」の姿を知る上で貴重な資料となっています。
 伊能隊一行は、海岸線と共に内陸部の街道筋も測量しており、「萩往還」、「山陽道」、「赤間関街道」、「山代街道」、「石州街道」をたどることができます。 
※主要街道の描かれた部分を展示しています。



「行程記」(山口部分)
  明和元年(1764)頃
 山口県文書館蔵


 行程記は、萩藩絵図方が、城下町萩から江戸(品川)までの主要街道である萩往還・山陽道・東海道・中山道の様子を描いた街道絵図(道中図)です。縮尺は、7800分の1です。
 往復両用のため、描写の視点を常に街道上の高所に置き、街道の左右に見える景観を描くため、図上では上下向き合わせになっています。沿道の、集落や自然景観、地名、名所旧跡の由来などが詳細に記されており、往時の街道の様子を示す貴重な歴史資料となっています。

「行程記」(山口部分)
  明和元年(1764)頃
 山口県文書館蔵


 行程記は、萩藩絵図方が、城下町萩から江戸(品川)までの主要街道である萩往還・山陽道・東海道・中山道の様子を描いた街道絵図(道中図)です。縮尺は、7800分の1です。
 往復両用のため、描写の視点を常に街道上の高所に置き、街道の左右に見える景観を描くため、図上では上下向き合わせになっています。沿道の、集落や自然景観、地名、名所旧跡の由来などが詳細に記されており、往時の街道の様子を示す貴重な歴史資料となっています。



「防長土図」
  有馬喜惣太/文政4年(1821)頃
 山口県立山口博物館蔵


 防長土図は、萩藩郡方地理図師有馬喜惣太(1708~69)が、藩命で作製した周防・長門国の大型地形模型です。防長両国の本土を分割した「切(きり)」と称される主要部品17個と周辺の島々92個の合計109個が残っています。
 地形を土型で作り、その上に和紙を何枚も張り重ねて、大型のものは張り抜きとし、島など小型のものは土型を残しています。山地、平野部、耕地、海、砂地が色分けされ、国境・村境を黒線、宰判境を白線、水系を濃青色、道を朱線で表しています。集落、寺院、神社、一里山、役所等の施設は黒または朱の記号で記入し、地名、寺社名等は貼紙で示しています。
 本図は、毛利氏の領国を鳥瞰した立体の国絵図ともいうべきもので、全国に他例を見ません。また、防長の地理に精通し、その自然・人文情報を大縮尺の立体図の中に適切に表現した有馬喜惣太の技量は高く、日本の地図発達史上、特筆される資料です。

第3章 絵図を作った人々

 近世の絵図は、街道のルートや景観を知ることのできる貴重な資料です。これらの絵図を作成した萩藩絵図方と防長を代表する天才地理図師・有馬喜惣太の事績と作品を紹介します。有馬の全作品が初めて一堂に揃います。



「譜録 有馬喜惣太武春」
  明和2年(1765)/山口県文書館蔵


 有馬喜惣太(1708~69)は、阿武郡生雲村三谷出身。福原家臣有馬八兵衛正光次男。実名武春。藩御用絵師雲谷等達の弟子となりました。享保7年(1722)、芝御前(毛利宗広妹皆子)婚礼御用のため御雇いとなり、元文元年(1736)までの15年間、雲谷家御用としてたびたび出仕し、宝暦12年(1762)まで26年間絵図方に勤務しました。



「芸州吉田行程記」(部分)
  有馬喜惣太/宝暦12年(1762)
 山口県文書館蔵


 周防・安芸国境の小瀬川を発し、広島城下を経て安芸国高田郡吉田庄(広島県安芸高田市)に至る街道絵図です。高田郡桂村を過ぎた辺りから毛利家ゆかりの重臣たちの墓所・石塔・古城跡が次々と示され、終点の郡山周辺の情報は詳細に記されています。
 本図は、有馬が毛利元就墓所の絵図を作製するため吉田に出張した際、任務の合間を使って独自に作製したものです。

「芸州吉田行程記」(部分)有馬喜惣太
  宝暦12年(1762)
 山口県文書館蔵


 周防・安芸国境の小瀬川を発し、広島城下を経て安芸国高田郡吉田庄(広島県安芸高田市)に至る街道絵図です。高田郡桂村を過ぎた辺りから毛利家ゆかりの重臣たちの墓所・石塔・古城跡が次々と示され、終点の郡山周辺の情報は詳細に記されています。
 本図は、有馬が毛利元就墓所の絵図を作製するため吉田に出張した際、任務の合間を使って独自に作製したものです。