天文 天文史跡
日本全国には、天文学者の記念碑や隕石落下地など、天文史跡と呼ぶにふさわしい場所がいくつもあります。その中には、すでに文化財(史跡)に指定され、保護されている箇所もあります。山口博物館の収蔵資料ではありませんが、ここで山口県周辺の天文史跡をいくつか紹介します。(山口県下松市・松村巧さんの協力による)
いわゆる平成の大合併によって市町村名が大きく変わりつつありますが、ここでは原則として、2005年(平成17年)12月31日現在の名称を用いました。必要に応じて旧市町村名をかっこ書きで加えています。(天文史跡は、過去に制作した文・写真を再掲載しています。)
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重力測定記念碑(山口県下関市)
文部省測地学委員会は、明治中頃から終わりにかけて、全国各地で重力加速度の測定をおこないました。この
プロジェクトでは、した。このプロジェクトでは、新城新蔵(京都大学宇宙物理学教室初代教授)などの天文学
者が観測に参画しています。 この碑はこの地域で重力測定が実施されたことを記念して建てられたもので、下
関市長府の県立豊浦(とよら)高校内にあります。
部坂神兵衛の碑(山口県宇部市)
部坂神兵衛(へさか しんべえ)(1794-1860)は、今の宇部市東岐波(きわ)に生まれ、若い頃に福岡の亀井塾
(1762年、儒学者の亀井南冥が開いた私塾)で学びました。彼が作ったと言われる渾天儀(こんてんぎ)が、宇部
市立図書館付設郷土資料館に収蔵されています。渾天儀とは、江戸時代まで使われた天文機器で、星の位置を
観測したり、天体の動きを説明するために用いました。
神兵衛は学問に優れただけでなく、庄屋として地元の発展に尽くしました。この顕彰碑は丸尾港の防波堤修
築など、神兵衛の事跡を称えて建てられたもので、宇部市東岐波丸尾の三(さん)神社境内にあります。
仁保隕石の碑(山口県山口市)
1897年(明治30年)8月8日午後10時30分頃、山口市仁保(にほ)中郷・井開田(いかいだ)東、信行寺(しんぎょ
うじ)付近に2個、山口市宮野上・河原付近に1個の隕石が落下し、仁保隕石(1号、2号、3号)と名付けら
れました。落下当時の記録には「天地俄に変色して青色となり」とか、落下直後の隕石は「いまだ暖気あり」
などと記されています。
落下100年を記念して、仁保隕石の記念碑が山口市の信行寺境内に建立されました。この記念碑は落下して
きた方向や、およその高度がわかるように作られています。
弘鴻の碑(山口県下松市)
弘鴻(ひろ ひろし)は、1829年(文政12年)に現在の下松(くだまつ)市花岡に生まれ、幼少の頃から数学や暦法に
優れていたそうです。慶応2年(1866)の四境戦争(第二次長州征伐)の時には、長州藩への国境が塞がれて暦が入
手できなくなり、農民は農作業の時期がわからず困窮しました。この時に弘鴻は暦を作って代官、藩主に献上
したそうです。その後、彼は山口明倫館の数学助教、師範学校教諭などを勤め、明治36年
(1903)に山口市で没しています。算数・数学、測量関係の著書が多数あります。
この碑は、これらの弘鴻の業績を顕彰したもので、下松市花岡戎町の閼伽井坊入口(花岡八幡宮参道脇)に建
てられています。
伝・下松隕石落下地(山口県下松市)
約1,400年前、今の下松(くだまつ)市北斗町の松の木に、大星(隕石?)が落下したと伝えられています。現在こ
の地には金輪(かなわ)神社があり、いまでも1本の松が記念として植えられています。星が松に下ったという出来
事が、下松という地名の始まりとも言われています。この写真は、記念の松の木(右)と、「下松発祥の地」の記
念碑(左)です。
玖珂隕石発見地の碑(山口県周東町)
1938年(昭和13年)に、山口県玖珂(くが)郡周東(しゅうとう)町小畑(こばた)・風子(かざし)地区の地中から鉄隕石
が発見され、玖珂隕石と名付けられました。2004年(平成16年)になって、玖珂隕石の事柄が忘れられていくのを残
念に思い、地元住民有志によって発見地に玖珂隕石の記念碑が作られています。
黄道光観測所跡(広島県福山市)
1935年(昭和10年)、国際天文同盟に黄道光(こうどうこう)部会が新設され、京都大学の山本一清(いっせい)が委員
長に就任しました。1937年(昭和12年)には、広島県瀬戸村(現・福山市瀬戸町長和)に、国際天文同盟黄道光部中央
局・瀬戸臨時黄道光観測所が建設されました。残念ながら、跡地には観測所の施設や記念碑は残っていません。
美保関隕石落下地(島根県松江市)
美保関(みほのせき)隕石は、1992年(平成4年)、松江市美保関町(旧八束(やつか)郡美保関町)の惣津地区に落
下しました。重さ6.5kgの石質隕石で、二階建て民家の屋根から地面まで貫通したことで有名です。1994年(平成
6年)には落下地に記念碑が建立されました。
本田實の記念碑(岡山県吉備中央町)
本田實(1913-1990)は、生涯に彗星12個 新星11個を発見した天体捜索家として有名です(倉敷市名誉市民)。吉
備中央町の黒岩山山頂(旧上房(じょうぼう)郡賀陽(かよう)町)には、本田實の観測所「星尋山荘(せいじんさんそう)
」が残っています。
1991年(平成3年)、星尋山荘の脇に記念碑が建立されました。
富田隕石落下地(岡山県倉敷市)
富田隕石は、1916年(大正5年)に落下した重さ585gの石質隕石です。1984年(昭和59年)、落下地の倉敷市玉島
八島3943番地に記念碑が建立されました。
源平合戦水島古戦場の碑(岡山県倉敷市)
1183年(寿永2年)の源平合戦の記念碑です。この合戦に平氏が勝利したのは、平氏は当日に金環日食があるこ
とを知り、源氏は知らなかったからだと言われています。
記念碑は、倉敷市玉島柏島の水玉ブリッジライン玉島料金所近くにあり、碑文にはこの日食のことが記されて
います。
倉敷天文台(岡山県倉敷市)
財団法人倉敷天文台は、日本初の民間天文台・公開天文台として、1926年(大正15年)に開設されました。初
代台長は京都大学教授の山本一清(いっせい)で、本田實らも台員を務めています。
倉敷市中央2-19-10には開設当時の天文台(国登録有形文化財)が現存し、今も活躍中です。
天神野基線跡(鳥取県倉吉市)
天神野基線は、1888年(明治21年)に陸地測量部(現在の国土地理院の前身)が測定した測量の基線です。基線
の北端点は倉吉市北野、南端点は倉吉市鴨河内にあり、基線長は約3.3kmでした。陸地測量部の基線測量では、
基線の一端で緯度や経度を天体観測によって求めています。
現地は真っ直ぐな道(県道237号線)がおよそ3.5kmも続き、基線場跡の特徴的な風景を示します。
方位石(福岡県北九州市)
北九州市若松区浜町1-2-37の若松恵比須神社の社殿前には、東西南北と十二支による方位が刻まれた石(北
九州市有形民俗文化財)が置かれています。社伝には伊能忠敬がこの地方の測量事業の成功を祈願して奉納し
たと記されているそうですが、忠敬の日記には記録がなく、詳細は不明です。
伊能忠敬記念碑(福岡県宗像市)
宗像(むなかた)市(旧宗像郡玄海町)神湊1220の「魚屋」前に、伊能忠敬宿泊跡の記念碑があります。この碑
は、1813年(文化10年)の第二次九州測量の際、博多から小倉への測量時に宿泊したことを記念したものです。
大宰府の漏刻台(福岡県太宰府市)
続日本紀(しょくにほんぎ)の記録により、大宰府(だざいふ)には奈良時代から漏刻(ろうこく:水時計のこと)
があったと考えられています。現在のところ漏刻台に関する遺跡は見つかっていませんが、特別史跡・大宰府政
庁跡の東側にある月山(つきやま)に置かれていたそうです。
からくり儀右衛門生誕地(福岡県大牟田市)
からくり儀右衛門とは、久留米市生まれの発明家で東芝創業者の田中久重(ひさしげ)(1799-1881)のことです。
彼の発明工夫の中には、天体の運行を示す万年時計、視実等象儀(しじつとうしょうぎ)や須弥山儀(しゅみせんぎ)
など、天文関係の品々があります。
1931年(昭和6年)、久留米市通町(とおりまち)10丁目の西鉄高架ガード東側に、生誕地の碑が建立されました。
大法寺の天測記念碑(愛媛県八幡浜市)
この記念碑は、1882年(明治15年)に海軍省水路局(海上保安庁海洋情報部の前身)が、海図作成のために、ここ
で天測(天体観測)を行ったことを記念したものです。天測は八幡浜(やわたはま)市本町の大法寺(だいほうじ)で
実施され、この地点の緯度経度を求めています。
当時の天測標石は滅失し、1980年(昭和55年)、大法寺境内に記念碑が建立されました。
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